『孝子節婦』

よねは、葛生の村樫(現宮下町)の農家、新之丞の妻です。そのしゅうと、しゅうとめ(新之丞の父母)が六、七年ほど前から、体が不自由になり、ひとりで寝たり、起きたりすることができませんでした。

 ですから、よねは毎朝早く起きて、父母をいろりのそばに抱いてきて、火にあたらせ、お茶やお菓子などを出し、体の具合はどうですかとたずねたり、世間話などをしてよろこばせました。

 そのうちに、夫の新之丞や新之丞の弟の八弥、友八などが朝めし前の野良仕事から帰ってくると、家中そろって朝食をとりました。 

男たちがまた仕事に出たあと、よねは一人家に残って、掃除、せんたくなど毎日の家事のほか、季節々々の仕事―たとえば、とり入れた麦、もみ、大豆などを庭に干す―をしたり、ひとりではやりきれないほどの用をやりながら、父母の好きなものなどを作って食べさせたり、肩や腰などをもんでやったりしました。

時々、父母のきげんの悪いこともありましたが、そんな時、よねはいろいろ気に入るような話をしたり、じょうだんなどを言ってなぐさめましたので、すぐきげんがなおって笑顔になりました。

だから、いつも「およね、およね」といって、よねがいなければ、夜も日も明けないほどに頼りにしていました。

この父母の楽しみの一つは、お風呂に入ることでした。

ある日、よねはいつものように、お風呂をわかそうとしたところ、夫が、「今日は娘が病気で大変だから、風呂は休みにしな。」と、言ったので、これを聞いた父母は腹を立てて、「いいとも、おれたちゃ、風呂なんかはいらねえぞ。」と、大声でどなりたてました。よねはおろおろしながら、「すみません。すぐお風呂をわかしますから・・」となだめ、風呂をわかし、着物をぬがせ、抱きかかえて風呂に入れてやり、よく洗ってやりました。

すると、「今日は、お湯に入って、とてもせいせいしたよ。さっきは、お前がいそがしいところを、新之丞が何かと言ったもんだから、腹を立ててどなったりしてすまなかったね。」ときげんを直したということです。

ふだんでもそうですから、病気の時など、夜中に十回以上も便所に行くことがたびたびありました。よねはそのたびに、かいがいしく世話をしました。だから、帯をといて、ゆっくり寝たことがなかったといいます。

また、天気の良い時は、時々おぶって、あっちこっちに行きました。まず菩提寺(※一家が代々帰依して葬式・追善供養などを営む寺)の南光寺には、ちょくちょく行きました。和尚さんと奥さんは、いつも温かく迎えてくれました。本堂の仏前で、和尚さんがお経ををあげますと、そのうしろで手をあわせて、お経をとなえます。また、庫裏(※寺の住職や家族の居間)ではお茶をいただきながら、和尚さんからいろいろありがたいお話を聞くのが、とても楽しみでした。時には、奥の池の方まで行くことがありました。途中の畑や田んぼの作物をながめるのが好きでした。「今年は雨がよく降って、水にゃ困らないし、お天気もいいので、米がうんととれるぞ。」とか、「○○さん家のさといもは、とってもできがいいな。あのずいき(※さといものくき)よごし(※あえもの)をつくったら、うまかんべなあ。」などとはなしかけるのでした。

むかし、元気で働いていたころのことを思い出しながら話す父母の声はいきいきとしていました。

それから、五、六月ごろ山の方に行くと、美しいうぐいすの声がよく聞こえたので楽しみでした。

春にはつつじ、藤、やまぶきなどいろいろな花が咲き、秋には、はぜやうるしなどの葉が真っ赤に紅葉して、きれいです。四季おりおりの変わった景色をながめることは、この上ない喜びでした。

およねは、夫のひまを見て、二人で父母をおぶって外に出かけるのでした。近くの親戚や親しい人の家に寄って、お茶をよばれながら、世間話などをすることも、なぐさみの一つでした。こうしてよねは、父母の病苦をなぐさめようと、いっしょうけんめいにつとめました。

それから、新之丞をはじめ、八弥、友八の三兄弟も、みな農業に精出し、よねと同じく、父母を大事にし、五節句(※節日、つまり人日(一月七日)、上巳三月三日)、端午(五月五日)、七夕(七月七日)、重陽(九月九日)などの式日)や農の休みの日には、一日中家に居て父母の世話をしました。用事などで外出する時には、三人のうち、一人は残って、父母のめんどうを見ました。そして、外から帰ってきたら、父母に外の様子などを話して聞かせ、なぐさめるのでした。

このように、四人のものがそろって親孝行しましたので、近所の人はもとより、遠くの町や村の人々にまできこえて、評判になりました。

寛永二年(一七五九年)の四月、領主さまより表彰され、ほうびとして、新之丞には、一生涯その家の税を免除され、よねには米十俵を下され、八弥、友八にはおほめの言葉がありました。 

 その後、ひどいききんのあった天明六年(一七八六年)にも、麦を下さったということです。 

この徳行(※道徳にかなった良い行い)を長く伝え、土地の者のお手本にしようと、昭和五年十月に、菩提寺南光寺の境内に記念碑を建てました。

 

 なお、碑のすぐ東側の岡の上に、新之丞とよねの墓がまつられています。