『勝道上人の井戸と弘法大師』

 

 勝道上人は、日光山を開山するまでに、山から山へと何年も歩き修業していました。会沢の小曽戸(おそど)村あたりに来て、金剛童子(こんごうどうじ)を祀ったり、瀧尾権現(たきのおごんげん)を祀ったり、井戸を掘ったりして、修業したこともあったそうです。そして、ここから出流山に行って修業したとのことです。

 後世になって、井戸の南の平らなところを田んぼにするために掘り返したら、火を焚いて修業した跡が出

てきたこともあったそうです。

 勝道上人が小曽戸村あたりで修業してから何十年か経った頃のこと、ひとりの坊様がこの地を通りかかった時のことです。坊様は、ずいぶん歩いて喉がかわいたので、田中坪と西山坪で飲み水をもらった時のことです。

とてもまずくてまったく飲むことが出来ませんでした。しかたなく、歩きつづけ、杉野坪あたりまで来て、ある家に立ち寄り、水をいただきたいとお願いしました。

 その家には、井戸がありませんでした。けれども、疲れた様子の坊様に水を飲ませてやりたいと、勝道上人の掘った井戸まで急いで汲みに行き坊様に飲ませました。

 坊様は、水をうまそうに飲みました。そして、「うまい水じゃ。しかし、少し時間がかかったようだが、どこの水じゃの」とたずねたので、家には井戸が無いので、いつももらい水をしていることを話しました。

すると坊様は、「遠くまで行ってくれて持ってきてくれた水のお礼じゃ。水を出してあげましょう」と、坊様は持っ

ていた杖(つえ)でドーンと地面をつつきました。すると不思議、水がこんこんと湧き出してきたのです。こうして、

この家のまわりの家では、水に困ることが無くなったということです。

 この坊様は、弘法大師だったと言い伝えられています。

  
※勝道上人は、下野が生んだ名僧で、日光開山の祖と云われている。芳賀郡高岡(真岡市)下野国府の役人の家に生まれ、出流山などで修業。後、下野薬師寺で得度し勝道と号した。五年間修業の後、二荒山山頂を目指して日光に入った。七六六年、四本龍寺を建て、日光山を開いた。勝道上人の井戸は、小さくなったが今も残っているとのこと。