『鉢の木物語』

佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)の父は、佐野上野守常春(さのこうずけのかみつねはる)といい、北条氏に仕え、鎌倉幕府の役人として、禄高三千貫文(職務に対する報酬の米または銭の額)お蔵番をつとめておりました。今から七百年ほど前のお話です。

ある年の夏、蔵の中の大事な品物の虫干しをし、手入れをしましたところ、頼朝公が大事にされていたという名刀(笹波)がなくなっていることがわかりました。びっくりして係の者一同で手をつくして探しましたが、とうとう見つかりませんでした。そのため、常春は役をやめさせられ、浪人となりました。

そこで、常春は鎌倉にいることができなくなり、親友の三浦泰村のすすめで、下野の山本の里(現在の豊代町あたり)にある願成寺の住職をしている古天和尚を頼って、妻といっしょに少しの家財道具を馬の背に積んで、はるばるとやってきました。

古天和尚は、鎌倉の寺にいた時、泰村や常春と親しい間柄だったのです。

古天和尚の温かいはからいで、正雲寺に落ち着き、田畑を耕し、またつれてきた馬を使って、薪や炭などを運ぶ馬方までして生活をたてていました。 そのうちに、うれしいことがありました。男の赤ちゃんが生まれたのです。古天和尚も大変喜んで、虚空蔵丸と名前をつけてくれました。

虚空蔵丸は両親にかわいがられ、すくすくと育ちましたが、五歳の時、母がはやり病にかかって亡くなりました。

 その後、常春は古天和尚のすすめで、虚空蔵丸を古天和尚に預けて、鎌倉に行き、三浦泰村の家を訪ねました。

 

 もしかしたらと期待していた刀の行方は、まだわからないとのことで、常春はがっかりしましたが、これからもよく探してみる、盗んだ奴を必ず見つけて捕らえて見せると、泰村に力をつけられました。それからしばらくぶりというので、泰村は酒やごちそうを出して常春をもてなしました。鎌倉でいっしょに暮した頃のなつかしい思い出話のあと、お互いに子どもの自慢話になり、そのことから、泰村の娘白妙(しらたえ)と虚空蔵丸とを、おとなになったら結婚させようと親同士の約束ができ、常春は明るい気持ちで正雲寺に帰ってきました。

 それから間もなく、常春は古天和尚の世話で、マキという檀家の娘を後妻にむかえました。マキは虚空蔵丸をよくかわいがって世話をし、また朝早くから夜おそくまで掃除洗濯、食事など家事一切をとりしきってよく働きましたので、常春はよい妻をむかえてよかったと喜びました。

 ところが、虚空蔵丸が十二歳の時、妹の玉笹(たまざさ)が生まれました。すると、自分の生んだ娘かわいさに、虚空蔵丸につらくあたるようになりました。しかし、虚空蔵丸は小さいうちから、長い間古天和尚に文武の道を教えられましたので、どんなにつらくされても、母をうらむことなく、孝行したということです。

 こうして、虚空蔵丸は十六歳となり、武士としてはずかしくない修行を身につけて成人しました。これまでに立派に教育した古天和尚の喜びは大変なものでした。和尚の手で元服の式(男性が成人になったことを示す式)をあげてやり、名も佐野源左衛門常世と改めました。そして、鎌倉幕府の武士として仕えるため、下男の勇助をともにつれて鎌倉めざして旅立ちました。田沼・足利・太田・川越を経て、武蔵の六郷川の渡しのそばの宿に泊まりました。旅の疲れで、ぐっすり眠り込んだ丑満時(午前一時ころ)、一人の賊が忍びこみ、常世に馬のりになって、懐剣で刺し殺そうとしました。

常世はとっさに身をかわし、賊をとっておさえ、あんどんに明かりをつけてみると、賊はなんととなりの部屋に寝ていた勇助ではありませんか。おどろいて問いただすと、「母は源左衛門がいなければ、娘玉笹にむこを迎え、佐野の家をつがせると考えて、源左衛門が鎌倉に着く前に、途中すきをみて殺すように奥様にたのまれました。」と涙ながらに白状しました。これを聞いた常世は大変おどろきましたが、母をうらまず「自分は母上のため、今まで一生懸命つくしてきたつもりであったが、母上がこんなにまで心をいためておったのか」といい、自分の髪の毛をもとどりからぶっつりと切って、紙につつみ、出立の時母上からいただいたじゅばんとお守り袋ととみに勇助にわたし、「常世は六郷の河原で辻斬りにあって殺されましたと伝えよ」といって、故郷に帰しました。

 そこで、常世は武士になる気力がすっかりなくなり、頭を丸め、仏門に入り、諸国行脚の旅に出かけるのでした。

こうして、何年かが経ち、常世が甲州(山梨県)から信州(長野県)に向かう国境小仏峠にさしかかった時、山賊につれさらわれようとした一人の若い女性を助けました。この女性こそ鎌倉の三浦泰村の娘白妙で、常世のいいなずけでした。白妙の話によると、「父泰村は幕府にむほんをくわだてているという疑いがかかって、幕府の武士たちに攻めほろばされたこと。

白妙は父のいいつけで、難をのがれ、下野の国の常世のもとに行く途中だったとのこと。途中、幕府の追っ手につかまってはと心配して、わざわざ遠回りしていく途中である」ということでした。こんなことで、常世はそれから白妙といっしょに、亡くなった泰村たちの供養をしながら旅をつづけました。それからしばらくして、ある所の寺にお参りして、休んでいた時、一人の旅僧がやってきました。そして、常世の顔を見るなり、じっと見つめ、つかつかとかけよってきて、「もしやお坊は、源左衛門さまではありませんか?」と言う。常世はおどろいて、「いかにも、わしは源左衛門であるが、して、そなたは?」・・・と。よくよく旅僧を見れば、なんとあの勇助ではありませんか。

「お前、どうしてこんな姿で。故郷の父上、母上は。古天和尚はいかにおわすか。」と矢つぎばやに、問いかけますと、勇助は、はらはらと涙をこぼしながら、「大変なことになりました。」と次のように語るのでした。

 勇助はあれから、故郷にいそいで帰り、常世に言われたとおり母に報告すると、母は大変喜んだという。その後、何事もなく過ぎ、妹の玉笹が十七歳になった時、村内から源太という人をむこにむかえ、やがて男の子が生まれました。一家はしあわせになったと思ったのも束の間、玉笹がほうそうの病気になって、一命はとりとめましたが、治ったあとの顔がぶつぶつへこみができ、見るも恐ろしい顔つきになりました。そのうちに、源太が業病(悪行の報いでかかるといわれた難病)にかかり、医者でも、薬でも治らないというありさま。

ところが、足利に大変よくきく薬を売っているという話を聞いて、源太はさっそく足利に行きましたが見つかりません。がっかりして帰る途中、越床峠の向こう側にある一軒の茶店で一休みしたところ、茶店のおばあさんが、「その薬なら、足利の町よりもっと東、天明の宿(佐野市内)に近い薬種屋(薬を調合・販売する店)にありますよ。」とのこと。

これを聞いて喜んだ源太は、今日はもう夕方だから、明日出なおして来ようと、疲れた足も元気になって峠を越え、田沼を通り、古越路から秋山川を渡って、夕暮れの野道を家に向かって急ぎました。その時、ひょいと行く手を見ると、「ちゃん!」と叫びながら、かわいい我が子が走ってくるではありませんか。源太は、「そら、そんなにかけると、ころぶぞ」と言いながら、自分も走っていって、子どもを抱きあげました。それから、坊やを背中におぶって歩き出しましたが、背中の坊やがだんだんと重くなっていく感じです。これは一日中歩きまわって、疲れが出たせいかと思ったのですが、そのせいだけではなさそうなので、一休みしようと、しゃがんで坊やをおろし、ひょいと振りかえってみると、坊やの姿が見えません。坊や坊やと呼びながら、あたりを探しまわりましたが見つかりません。源太はますますあわてて、それじゃ家へでもと思って、急いで家にかけつけました。するとどうでしょう、坊やはざしきで昼寝をしているのです。さてはさっきの坊やは坊やではなく、狐か狸が化けて、自分をおどかしたのかとくやしがりました。でも坊やが無事だったのでほっとしました。

さて、次の日源太はまた薬を買いに出かけました。教わったところに良い薬があったので、それを買い求めて、喜んで昨日のように古越路を越え、秋山川を渡って帰ってきました。ところが、昨日と全く同じところまで来ると、坊やが昨日と同じように手をあげて「ちゃーん!」とさけびながらかけてくるではありませんか。これを見た源太は、「ようし、二度とだまされるもんか。ちくしょう、見ておれ。」と言うや腰に持っていた麻切り包丁のようなもの(昔は山道を通る時、護身用に持っていた)を引き抜いて、「ちゃーん」と言いながら、父にとりすがろうとした子どもを「こんちくしょう!」と切りふせました。子どもは「ぎゃー!」とさけんでたおれました。「ざまあ見ろ」と言いながら、家に帰ってきました。妻が出てきて、「あなた、お帰りなさい。坊やは? 坊やが今し方、ちゃんを迎えに行くんだといって、出かけたんですが、あいませんでしたか。」という。

「えっ!それじゃ、いまのは本当の坊やか」とびっくりぎょうてん。夢中でさっきのところにかけつけました。見ると真っ赤な血に染まって、坊やが死んでいるではありませんか。源太と玉笹は、死体にとりすがっていつまでも泣いていました。

間違いとはいいながら、かわいい我が子を自分の手で殺してしまった源太は、すまない、すまないと気が違ったようになり、それから間もなく家を出て、行方不明になりました。玉笹も長い髪を切って、尼さんになり、小さな庵を作って引きこもり、死んだ子の霊をなぐさめるため、朝から晩までお経をあげていました。母のマキは、つぎつぎに起こる不孝になげき悲しんで、毎日泣いてばかりいたので目が悪くなり、見えなくなった上、病気になって寝たきりですという。また古天和尚は年をとり、病気で急に亡くなり、また父常春もそのあとを追うように、病気のため死んでしまったということです。この話にびっくりした常世と白妙は、急いで正雲寺にかけつけました。幸いにまだ母が生きておりましたので、常世夫婦は昼も夜も心をこめて看病につとめました。母は、一度は殺そうとまでした常世が、自分をうらむどころか、だれにもできないほどの手厚い看病をしてくれる親孝行に感謝し、「すまないね、すまないね」と病の床から二人に手をあわせ、心安らかに亡くなったということです。

 さて、これからが、世に知られている「鉢の木物語」になります。

建長五年(一二五三年)のはじめ、きびしい寒さに明けた冬の朝、降り出した雪はまもなくはげしい吹雪となって、一日中降り続きました。

人っ子一人通らない大雪の夕暮れ近くに、一夜の宿をと常世の家の軒下に立った旅僧がありました。常世夫婦は親切に迎えて、いろりばたに招きました。

 氷のようにつめたくなった手足や体も、しばらくいろりの火にあたったので、やっともとのように元気になりました。そこへ、白妙が「何もありませんが、どうぞ」と炊き立ての粟のかゆをさし上げました。旅僧はおいしそうにいただきました。ようやく生き返った心地になった旅僧は、あたりを見まわすと、ひどいあばらやです。でも、なげし(柱と柱をつなぐ材)には槍がかけてあり、そまつな床の間には、古びたものですが、よろい、かぶとがきちんと置かれています。これはただの百姓ではあるまい、武士が何かわけがあっての仮住まいであろうと思いました。また主人夫妻の言葉づかいや立居ふるまいにもうなづかされました。そこで旅僧は、

「さしつかえなくば、お名前とわけをお聞かせ願いたい。」とたずねますと、常世は、申し上げるほどの者ではございませんと、口をつぐみました。

その時、妻の白妙が、焚き木がなくなりましたがと、困った顔つきをしました。ふつうなら、充分間に合うだけの焚き木があったのですが、旅僧のため、ふつうの二倍も燃してしまったのです。すると、常世は台所に行って、とりこんでおいた鉢植えを持ってきました。見れば、梅、松、桜のいずれもりっぱな盆栽です。それをおしげもなく折ってはくべるのです。

これを見た旅僧はびっくりしてとめましたが、常世は、「いや、おはずかしい次第です。せめてこれだけでもあたたまっていただいてお休みいただこうと存じます。」という。旅僧はますます感心して、ぜひお名前などとたずねましたので、常世も隠し切れず、父のことから今までのことを話しました。そして、「私も鎌倉武士の子です。鎌倉幕府に万一大事が起こった時は、かけつけて、命がけでご奉公する覚悟です。」と語りました。旅僧はほとほと感心しましたが、自分が時の執権北条時頼であることを明かしませんでした。

 さて、次の日は雪もすっかりやんで、朝日が雪にかがやいています。旅僧は常世夫妻に厚く礼を述べて、出流山満願寺を目指して旅立ちました。

 こうして、寒い冬から春へ、春から夏、秋と月日がたちました。その年の十月末でした。鎌倉に一大事が起きたので、諸国の大名や武士が、ぞくぞくとかけつけているといううわさが伝わってきました。常世は、「時こそ至れり」と、よろいかぶとに身をかため、槍をこわきに、やせ馬にむち打って、『いざ、鎌倉!』と、勇ましく鎌倉にかけつけました。

時頼公は、諸国の大名、武士の面前で常世を呼び出し、「わしは、いつぞや大雪の日、一夜の宿をそちの家でやっかいになった旅僧である。このたびの兵集めは、そちの忠誠心をためさんがためであった。あの時のことばどおり、よくかけつけてくれた。」と、おほめの言葉があり、下野の三十六か郷のほか、大事な梅、松、桜の木をたいてもてなしてくれた礼といって、上州松井田の庄、越中桜井の庄、加賀の梅田の庄、の三つを与え、六万三千石の大名にとりたてられ、小田原城をたまわったのです。昨日に変わる今日の出世、常世はこれで亡き父上の無実の罪をはらし、家名をあげることができ、また亡き師古天和尚にも恩返しができたと、涙ながらに喜びました。

 翌年の建長六年(一二五四年)五月七日、常世は鎌倉に住む三浦氏の遺族を訪ねる途中、馬入川にさしかかりました。ちょうど梅雨時で、川は濁流がうずまいて流れていました。家来はあぶないとこわがっていましたが、常世は「これくらいがこわくて戦にいけるか。」とはげまして、舟を出させました。今少しで向こう岸に着くという時、大きくうずまいた濁流に舟がのまれ、乗っていた者は、みな水死してしまいました。そして、常世の死体は見つからなかったそうです。

菩提寺の願成寺では、以前、勇助が送り届けた遺髪を釈迦堂の前に葬って、ていねいに供養しました。「仏手院殿一山道覚居士」のりっぱな位牌が、本堂の正面に安置されて、今に至るまで供養が続けられています。

 なお、常世の墓の向かって右に母、左に妹の墓が建てられています。

 また、正雲寺の屋敷あとには、実相院という小さな寺がありましたが、すっかり朽ちはてたので、取りこわし、今は正雲寺公民館が建っています。この正面の一室に、常世の守り本尊といわれる地蔵尊とその両わきに、薬師如来と阿弥陀如来が祀られ、常世とその母の位牌も安置されております。

 

 なお、屋敷の北西部のすみに、守神といわれる矢越天神が祀られています。