『吉沢松堂と渡辺崋山』

 

天保九年(一八三八年)八月下旬に、下野国佐野庄天明郷(しみつけのくにさののしょうてんみょうごう・今の佐野市)で、福田半香(はんが)の画会(がい)が催されました。

半香は渡辺崋山の弟子で山水をかくのが得意でした。

 さて、崋山は、かわいい弟子の画会だというので、はるばる江戸から天明にかけつけて、応援されました。

ところで、この画会に佐野庄葛生の吉沢松堂も出席して応援しました。松堂は本名を兵左衛門といい、年寄(としより)、若名主(わかなぬし)などを勤め、苗字(みょうじ)、帯刀(たいとう)を許され、また領主の用達(ようたつ)も勤めるなど、地方では指折りの有力者でした。また、絵をかくことが大変上手で、墨竹(ぼくちく)の絵を得意としました。 松堂の弟子の中に、佐野小中村出身の田中正造がおりました。正造は十四歳の時、父母から画家になるようすすめられ、松堂の門に入って、絵の勉強をしました。

ところが、正造は七歳から十四歳まで、地元の赤尾小四郎という先生について漢学を学び、勤皇愛国(きんのうあいこく)の精神を身につけました。幕末のきびしい世の中にあって、静かに絵の勉強だけに、心を打ち込むことができなくなったのです。ある時、

 〝君がためつるぎとらんと思ふ手に

   まげて絵筆をにぎる今日哉〟(きょうかな)

という歌を作りました。これを見た松堂は、

 〝君がため剣(つるぎ)とり立つ心あらば

   たゆまず学べ ますらをの道〟

という歌を作り、正造に与えて励ましたということです。

 正造は十五歳までしか、絵を習いませんでしたが、松堂先生の得意だった墨竹の絵を上手にかくようになったということです。

 さて、話をもとにもどします。渡辺崋山はただの画家でなく、やがて「日本の夜明け」を迎えようとする大事な時代にあって、国を愛する心が強く、天下国家を憂うる国士たちと交わって、活躍されていました。

崋山の接待役として、崋山にはじめてあった松堂は、このようにすぐれた崋山の人格を、心から尊敬したのでした。

 その時のことです。崋山は吉沢家に元(げん)の国の梅崋道人(ばいかどうじん)の書いた「竹の絵」対幅(ついふく)があることを聞いて、驚きました。それもそのはず、梅崋道人は、本名を呉仲圭(ごちゅうけい)といって、元の四大家のひとりに数えられた立派な画家で、山水、墨竹の絵が特にすぐれていました。この人の書いたものは、その当時あまり残っていなかったので、支那(しな・中国)でさえ、なかなか見ることができないといわれていました。そのような貴重な画が、江戸を遠くはなれた田舎の葛生にあるというのです。崋山はさっそく松堂に案内されて、葛生の吉沢家を訪れたのでした。

 崋山のような大家が、ぜひ一度は見たいとあこがれていた絵、まぼろしの絵ともいうべき梅崋道人の絵に接した崋山の感動は大変なものでした。名人の心、技は名人にして、はじめてよくわかるといわれていますが、まさのそのとおりでした。

 こうして、いくらながめてもあきることのない崋山は、吉沢家の心づくしのもてなしを受けながら、数日を過ごしました。崋山が吉沢家の厚意にむくいるために書いたのが、有名な『崋山風竹図』です。たて四尺六寸二分(約一四0センチ)、幅二尺八寸一分(約八十四センチ)の絹本水墨(けんぼんすいぼく)の大きなものです。かき終わって、賛(さん)を書き入れました。この賛のあとに、崋山は八十八字の長い序(じょ)を書きました。

 天明二年(一七八二年)にはじまった大飢饉(ききん)のとき、吉沢家七代目兵左衛門が、自分の家の立ちならぶ倉の中の米、麦を困っている人々に、みんな分け与えて、救ったという話に、崋山はとても感動しました。そこで、この序の終りの方に「松堂は佐野の農人であるが、富みて義を好む」と書いて(原文は漢文で書いてあります。)松堂をほめたたえ、「この詩の心を心として、困っている人をいたわり、愛されるように、自分はただの風竹の絵をかいたのではない。風竹の心をかいたのである。」と結んでおります。

 それ以来、この「富而好レ義」(とみてぎをこのむ)が吉沢家代々の家風になったといいます。

 

 松堂は、吉沢家当主慎太郎氏の五代前に当り、遠い先祖は新田大炊助義重(にったおおいのすけよししげ)です。なお、義重の子孫には、新田義貞など有名な人々が出てきます。