『火付け犯人善心坊』

 文政七年(約一七〇年前)二月七日、九つ半(午前一時)ごろ、小屋村字上河原の百姓平左衛門の家の西軒下から火が出ました。まがわるく、その夜はとくに、西風がはげしく吹いていたので、火はたちまち燃えひろがり、付近の農家七軒を焼きつくしました。なお風が強まったため、秋山川をこえ、下り沢に飛び火し、勇吉、平八の両家が焼けました。

 村民総出で、必死になって、消火作業につとめましたが、火は下り沢岩山に燃えうつり、更に飛び火して、下仙波から岩崎、神平方面まで焼き尽くして、ようやく鎮火しました。

 火事が消えたあと、火元の平左衛門宅をくわしく調べました。ところが、失火ではなく、付け火であろうということになり、その犯人を探しましたところ、同月九日、下り沢の三日月神社わきで、四、五人の村人たちが、怪しい小坊主を見つけました。さっそく、取調べ役の長五郎宅で、取り調べましたところ、この小坊主は善心坊といい、当年十七歳で、常陸国(ひたちのくに・茨城県)真壁郡(まかべごおり)稲野辺村の百姓利兵衛の倅(せがれ)亀蔵とわかりました。亀蔵は小さい頃からのいたずらもので、親も手にあまって、村の寺の和尚さんにお願いし、坊さんとして、厳しい修行をさせたら、よい人間になれるだろうとのことで、寺にはいって小坊主となり、名も善心坊と改めたということでした。

 ところが、きびしい修行にたえられず、文政六年七月、善心坊は寺を飛び出して、あちらこちら、ゆくあてもなくうろついていました。次ぐ年(文政七年)に下野国(栃木県)にはいってきましたが、一か所に落ち着いて働こうとしないで、腹がへると畑の作物などを盗んで食べたりして、いのちをつないでいました。

畑に作物のなくなる冬になると、ついに、食べ物を盗むために、火付けをするようになったのです。

すでに何回か火付けをし、近所の人が火を消すため、自分の家が留守になる、その間に家に忍び込んで、食べ物を盗むのです。小屋村の大火も善心坊が火付けしたということを白状しました。

 そこで、小屋村の名主多郎兵衛と年寄の長左衛門の二人は、大急ぎで江戸に出かけ、小屋村の領主である宗対馬守(そうつしまのかみ)さまの役所に訴え出ました。

 訴えにより、さっそく役人が江戸からはるばる小屋村にかけつけました。そして善心坊を改めて取り調べた結果、火付け犯人ということが、はっきりわかりました。そこで、当時、罰の中で一番重いとおそれられた、火あぶりの刑がきまり、八月二日に火あぶりにすることになりました。

 刑が行なわれるまで、新しく牢屋を作って、善心坊を入れておきました。

その間、下仙波村、上仙波村、牧村(旧葛生町)、出流村(現栃木市)、上多田村、戸室村、(旧田沼町)の六か村の人々が、交代で毎日二名ずつ出て番をしました。その時の延べ人員は、三百五十八人だったと、古文書にかいてあります。

 いよいよ、八月二日がきました。江戸表から内山左衛門という御検使の外、役人がおおぜい出張してきました。善心坊は馬に乗せられ、村中引きまわされたあと、今の小屋橋の西あたりで、火あぶりの刑にされました。その当時でも火あぶりの刑というのは、ごくまれなことでしたので、これを見ようという人々が、近村ばかりでなく、遠くの町村からからもやってきました。朝暗いうちに家を出て、ちょうちんを持ってきたものもあり、みな腰にはおむすびを下げてきましたが、この人たちのために、刑場付近の畑に作ってあったナスやキュウリなど、すっかり盗られてしまったという話も伝わっております。なにしろ、当日集まった見物人の数が一万五千人もあったというのですから、大変なわけです。こうして処刑された善心坊の遺体は、小屋村の明光寺の住職が引き取り、観音堂の裏に葬りました。そして七日・七日の供養も欠かさずされたとのことです。

 また、土地のおばあさんたちも、だんごなど作ってあげ、念仏供養をしたそうです。自分の家を焼かれた人たちも、火あぶりのひどい刑にされて死んだ善心坊には、もう罪は消えたという、やさしい、尊い人間愛があったのですね。

 今、明光寺観音堂の前に善心坊の墓がありますが、極悪人というので、本人の名を刻むことができなかったのか、墓石の正面に、「三界万霊搭」横に「文政七年」とだけ刻まれています。

 

 ※参考 この話を詳しく書きとどめた古文書(文政七申年二月、火附囚一件控)(一五六頁)が寺の門前、小松原武恒さん宅に保存されています。これを書いた人は、小松原家の祖先で、この話のはじめに出ました、当時小屋村の年寄役をつとめていた、長左衛門さんです。