『六部地蔵』

 

 今からおよそ二百年ほど前(寛政七年)のこと。越後の国(新潟県)から、はるばる当地にたどりついた一人の六部(巡礼)がありました。長い年月諸国をめぐり、寺々のお参りをして歩きましたので、その疲れがでました。それに、この土地の人々の親切さが身にしみて、嬉しかったのでしょうか。この土地で余生を送ろうと心に決め、山菅の竜体様のあたりに小さな庵を建てて住みつきました。朝夕念仏を唱える外は、訪ねてくる近所の人たちと茶飲み話をすることが、ただ一つの楽しみでした。

しかし、それから間もなく病気となり、近所の人の手厚い看護のかいもなく、亡くなってしまいました。地元入り組の人々は、異郷の空で寂しく死んだこの六部のなきがらをていねいに葬って、めいふくをお祈りしました。それから、地元の人が六部の庵を整理したところ、たくさんのお金が見つかりました。

長い諸国を順礼して、いただいたお金をためておいたのですね。そこで、みんなが相談して、このお金でお地蔵さまを二体作りました。

一体を今の天神橋の近くの通り道(土沢武夫さん宅わき)に小さなお堂を建ててお祀りし、もう一体は多田に行く街道(須藤タイヤあたり)にお祀りしました。

 このお地蔵さまは、亡くなった六部の供養のために建てられたのですが、そのほか、村人が病気にならず、災難にもあわないように、また道行く人の安全も祈願するために建てられたのでした。

 また、このお地蔵様には、それぞれ「越後国蒲原郡(かんばらごおり)古立村」と刻んであり、道行く人の目に止まるようにしました。それは、もし越後にゆかりのある人が、これを見て、故郷の人に知らせてくれることもあろうかとの願いからだったということです。なお、まだお金が余っていたので、畑を一反七畝(十七アール)買い求め、地蔵畑と名付けて、そこからとれる作物を売って、供養料としたといいます。この地蔵畑は今も残っているそうです。

 さて、それから長い年月がたち、今から五十年ほど前に、一方の地蔵様は移され、現在は回向院(えこういん・当時)前に安置されております。そして、今もなお供養が続けられているそうです。

このことについて、こんな話が伝わっております。ずっと昔のこと、地蔵畑に関係ある世話人の一人が、体の具合が悪いので、あるところで拝んでもらったところ「お地蔵様の供養を怠っているからだ」といわれ、さっそく供養したところ、すぐに病気がなおったとか。現在も近くの人々が毎年欠かさず、春の彼岸にはだんごをお供えして供養を続けているそうです。

 ところで、このお地蔵様は「金づくり地蔵」ともいわれ、このお地蔵様を拝むと、お金がたまると伝えられています。それは、この物語りから出ているものと思われます。ですから、供養のとき、次ぎのような念仏が唱えられたということです。

    上の地蔵さん

   きみょうちょうらい じぞうさん

   はるかおどうを ながむれば

   くろがねのばして はしらとし

   あかがねのばして さしいがね

   しろがねのばして いたにうち

   せんぼんたるきに そこうがね

   ひがしとだなは ぜにすだれ

   ぜにのめどから あさひさす

   あさひのひかりで かねがわく

   おゆわい おねんぶつ おめでたや

    (なむじぞうへんじょうそん)

 

※天神橋のそばにあった一体は、現在は山菅町会公民館となりの正明寺(元回向院)の境内に安置されております。地元の方が屋根をかけて保護しておりますので、一部損傷しておりますが、地蔵名と建立時期等が判読できる状態にあります。もう一体は、元須藤タイヤさん北側の道路わきに安置されておりますが、像の一分が欠落するなど風雨にさらされ判読できない状況にあります。